播磨を拠点としている身としては、この国の歴史をもっと詳しく知りたい。図書館などで気になる本があれば借りて読んでいます。

今回は、姫路市の南部、英賀にある英賀城主である「三木氏」を知りたくて、「赤松氏・三木氏の文献と研究」という本を読んでみた。この本は1974年に出版されたようで、神栄宣郷氏の著書である。

全部で480ページ(資料編含め)ある大著なので、読んでみて自分なりに気になったところをメモします。
ご興味ある方は図書館などで借りてみてください。

読んでみて、メモ書き

・三木氏は、他の播磨各地の諸氏と同じように、播磨土着ではなく、伊予守護職、湯月城主河野家の一族であり、お家としては格式の高い方の家である
・英賀に来た経緯は、南北朝期に河野通堯が細川頼之に攻め滅ぼされかけた時に、時の将軍足利義満の保護を受け、その遺児達が播磨や讃岐に所領を得たところからはじまる
・その遺児の一人が所領の播磨に向ったとたんに戦傷で死去したため、讃岐の三木郡で藤巻城主として所領を持っていた弟が兄の遺領を継ぎ、播磨飾東郡松原郷の恋ノ浜城に入ったのが、三木右馬介道通近(当時19歳)であり、英賀三木氏のはじまりである
・「恋ノ浜城」、聞いたことがありませんでしたが、いわゆる構という堀をめぐらした館レベルのもので、現在の松原八幡神社の東北数百メートルあたりにあったのではないかということです。遺構は何も残っていないようですが、一度訪れてみたいと思います
・三木家も河野家と同様に「通」の字を通字として使っており、歴代の領主の名についています
・三木家の家紋も河野家と同じ、傍折敷に三文字で、大山積神社の神紋と同じ
・ちなみに、瀬戸内海を制した三島・村上・来島の水軍の旗印は折敷に三文字で、三の文字が波打っているもの。これら水軍の棟梁も河野家の関係者とのこと。道理で、その後三木別所氏籠城戦や本願寺と信長戦などで瀬戸の水軍が英賀を港として利用していたわけだと合点がいく
・「恋ノ浜城」が三木氏の居城であったのは、初代通近から三代通重まで
・三木氏は播磨で生きていくために、播磨守護であった赤松家の一族である、觜崎家(揖東郡越部庄觜崎村、柴摺城主觜崎則重の三男)から養子を入れたり、赤松満祐の娘を娶ると同時に、各地で赤松勢として武功を重ねる
・しかし、嘉吉の乱で赤松家が一旦滅んだことで、山名氏への臣従を迫られ、四代目通武の時に、英賀城へ移ることになる(この時、30年後には赤松が復活すると信じ、耐えることにしたとのこと)
・英賀城の初代城主は四代目の通武。妻は、赤松一族である加東郡蓬莱河内守安祐の娘、嵯峨。
・英賀城は元は安芸が本国の吉川氏が納め、その後赤松祐尚が城主を務めた
・英賀城は、当時「磐繋城(いわつなぎじょう)」と呼ばれていたらしい
・英賀城はいまの山陽電鉄西飾磨駅から西に徒歩5分ほどの川を渡ったところを本丸にし、北は英賀神社の先まで、西には夢前川がいまよりももっと西側を流れ、そこには英賀御堂と呼ばれる本願寺の拠点を作り、かなり大きな要塞都市になっていた
・しかし、いわゆる平城であり、周囲の山からは城内が一望、どちらかというと港町としての機能を重視していたようである
・三木氏には播磨に縁者がいた?!小野氏系統といわれる、三樹宰といういまの加古川市泊神社があるところにあった石弾城主が縁者らしく、赤松勢として各地で一緒に転戦している。その子、勇、孫の長、そしてのその子幾千代は三木家に養子に入り、通規と名乗っている。

まとめ

この本には、南北朝期の戦乱、応仁の乱、赤松家の再興戦、織田家の侵攻なども文献資料として掲載されており、しっかり読み込めば、もっと理解が深まるだろうなと思います。
文献が正しい記載なのかどうか、そんなところまで「研究」するのは、到底難しいのですが、少しづつでも播磨を知るために勉強を継続したいと思います。



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