真田信繁直系子孫に会える!日本料理 真田幸村 本家さん@西明石へ訪問。

もともと、真田家は幸村を筆頭に、ドラマや漫画、ゲームを通じて、日本全国で最も有名な戦国武将ですね。

今年は、大河ドラマ「真田丸」でその人気が沸騰しています。

真田家は関ヶ原合戦を前に、一族の生き残りをかけて兄弟が敵味方になることで有名ですね。(実際は、真田家に限らず、戦国時代の武家の常識でもありました)

結果的には、勝った兄の信之は松代藩主として存続したということになっていますが、実は弟の信繁も大坂の陣で討死したのではなく、遠く薩摩の地で生きたという。
その信繁、その長子大助の子孫の方がおられ、西明石で料理店をされています。

その名も、「日本料理 真田幸村 本家」

日本料理&ゲリラ料理 真田幸村本家
〒673-0016 明石市松の内2丁目1-2
TEL:078-223-3777

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まずは、腹ごしらえということで、海鮮丼を。
残念ながらランチ営業は終了です!ぜひ、夜にお酒とおいしい食事を食べに来てください。
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店内には、しっかりと朱色の甲冑が鎮座します。
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大坂の陣で、家康は死んだという説があります。
その説を証明する一つとして、大坂堺の南宗寺には、家康の墓があり、堺代官は必ずそこを訪れたと伝わりますし、秀忠、家光など歴代将軍でさえも訪れていると言います。

その家康を刺した刀が「妖刀村正」。
なんと、それを拝見、且つ、タッチまでさせていただきました!
あ、右側のオールバックの方が真田家17代目の真田洋至(ひろし)さん。永ちゃんLOVEな方です。
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こちらか家系図。
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大坂の陣で何があったのか。どうして遠く薩摩の地へ。
その後、彼らはどう生きたのか。その辺は、こちらの本を見てください。
「その男、真田幸村」

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武楽衆は、今後も真田本家さんで甲冑を着てみたり、懇親会で訪れたりなど、播磨での戦国化をご一緒したいと思います!!

妖刀に憑りつかれないかな・・・・・・。


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武楽衆の衆長です。 日本全国を戦国リアルシュミレーションの舞台とする野望を追究します。

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4件のフィードバック

  1. 海野あきら より:

    これ真偽はどうなのですか?私は海野家の者ですが信繁公が落ち延びたとは聞いたことがないです。
    信之公のご子孫の方々はおられますがその方達はこの家系は正しいと認めておられるのでしょうか?

    • 衆長 より:

      海野さま

      コメントありがとうございます!
      真偽につきましては、私の方は語る立場にございませんので、ご理解いただければ幸いです。
      よろしければ、一度ご本人さまとお話しいただければと存じます。

  2.  長女・すへ──長女すへは、通説では、阿菊と呼ばれているが、これは幸村の書状の誤読によるものだという。信州上田で生まれ。母は家臣堀田作兵衛興重の娘(妹)。祖父堀田作兵衛興重の養女として小県郡長窪の郷土石合十蔵道定に嫁ぐ。阿菊(石合十蔵道定室)─家栄─家正─家富─家隆─道賢─晴宿─義陸─義則─行道─九郎兵衛─英男
     次女・於市──信州上田で生まれ。母は高科内記の娘。一説に堀田興重の娘(妹)。慶長5年(1600年)12月に父、幸村が幽閉地の紀州九度山に伴った唯一の子女である。その後、九度山において早世したとされている。
     三女・阿梅──慶長9年(1604年)九度山で生まれる。母は大谷吉継の娘。一説に高科内記の娘。滝川伊予守一益の孫の滝川三九郎一積の養女?大坂の陣で片倉重綱の陣に投降(12歳)。元和6年(1620年)重綱の後室となる。阿梅(白石城主片倉小十郎重長室)─景長─村長─村定─村廉─村典─景貞─宗景─邦憲─景範─景光(男爵)─健吉(男爵)─信光(男爵)
     四女・あぐり──九度山で生まれる。母は大谷吉継の娘。滝川一益の孫、叔父滝川三九郎一積の養女。大坂の夏の陣後、母大谷氏と共に捕らえられる。叔父滝川三九郎の養女として蒲生氏郷の老臣蒲生源左衛門郷喜の子郷明に嫁ぐ。寛永10年(1633年)主家である蒲生氏が断絶。日向延岡に移る。
     長男・大助幸昌──慶長7年(1602年)に紀伊九度山で生れた。母は大谷吉継の娘(竹林院)である。真田大助の子孫と称する旗本があった。蓮華院月牌帳によると、享保12年、江戸の旗本、従五位下滋野正周(八木主税助)という者が大助の位牌を立てているが、それによると、大助はのちに長左衛門と称し、慶安4年(1651)7月20日に死んだという。「八木系図」によると、大助は落城後堺に住んで高井長左衛門と称した。その子・平右衛門元理のとき将軍家綱に召し出され、その子・正周は綱吉に信任されて千五百石にまで累進した。また、真田幸村とともに薩摩落ちした真田大助は、島津貴久の弟・忠将に実子がなかったことから、その養子となり、島津幸久と名乗って、(宮崎県)佐土原島津家中興の祖となったという話もある。さらに、、秋田県大館市では、真田大助は、はじめ「真田長左衛門幸昌」と称したが、のちに「信濃屋市兵衛」と改め、89歳で死亡、一心院に葬られたという記録もある。そのほか、いろいろな説があり、系図も含め確定するまでには至っていない。
     五女・なほ(御田姫)──御田姫(なほ)は、阿梅と同年1604(慶長9年)九度山で生まれる。母は三好秀次の娘。大坂の陣前、母と共に京の曾祖母瑞龍院に避難。出羽亀田藩主岩城(佐竹)但馬守宣隆に嫁ぐ。御田姫(岩城庄次郎宣隆室)─重隆─景隆─秀隆─隆詔─隆長─隆恕─隆喜─龍典─隆永─隆信─隆政-隆長(子爵)─隆徳(子爵)─隆宣(子爵)
     六女・阿菖蒲──九度山で生まれる。母は大谷吉継の娘。大坂の夏の陣後に奥州白石で養育された。初め青木次郎右衛門室。のち片倉重綱と阿梅の養女として伊達正宗の正室、田村氏(愛姫・めごひめ)の一族、片倉金兵衛定廣(知行300石)に再嫁ぐ。阿菖蒲(片倉金兵衛定廣室)─定典─定監─定秀─定次─定友─定昌─顕矩─正顕─邦雄
     七女・おかね──九度山で生まれる。母は大谷吉継の娘。大坂の夏の陣後に奥州白石で養育された幸村子女五人の1人。金貸しで、茶人の元犬山城城主・石河備前守貞清(宗林)の子、藤右衛門重正(宗雲)に嫁ぐ。京に移住した。おかね(石川備前守貞清室)の系図はわからない。
     八女・某(女)──青木次郎衛門室となる。女(青木次郎衛門室)の系図はわからない。
     九女・某(女)──九度山で生まれる。母は大谷吉継の娘。大坂の夏の陣後に奥州白石で養育された。早世。
     次男・大八守信──母は大谷吉継の娘(竹林院)である。慶長17年(1612年)に九度山で生れた。子供のとき京都で印地打ちで寛永10年(1633年)5月5日に没したと記録されている。江戸初期から中期、後期まで幸村の子孫と思わせるものは何も無く、江戸時代に「眞田三代記」が流行り、眞田幸村が人気となると、僅かに幕末になり、幸村人気を意識しだして、守信の墓に銭紋が付いていたので、明治5年の墓には、幸村10世真田源田左衛門滋野幸清と刻んだ。真田大八が夭逝していると云う真田本家の正史等が伝わっていない時代だから幕末の子孫が間違えた。そして、大正時代に講談で「眞田十勇士(眞田三代記がもとだが、猿飛佐助や霧隠才蔵などが登場し、講談師による完全な創作)」が流行ると、それに便乗しようとして、大正、昭和の時代になり、真田本家の正史、片倉代々記などの書物が出るに及び、つじつまを合わせざるを得なくなり、「真田大八死亡の噂を流した」とか、「系図の偽装(叔父の子孫)」とか、「子供5人の保護説」とか、明治から昭和生まれの人が記した家系図を江戸時代から伝わる系図と言い出した。最近、真田徹は「眞田幸村の子供5人を保護する代わりに、徳川家康を討ち取るという眞田幸村と伊達政宗の密約があった」と言い出したが、根拠となる古文書はもちろんなく、作り話の言い伝えもなく、論拠すら示していない。大八(守信)─辰信─信成─信経─信親─信診─信凭─幸済─幸観─昌棟─徹寿─治彦 なお、この系図と真田徹との関係はわからない。
     三男・左馬之介幸信──母は三好秀次の娘(隆清院)。元和元年(1615年)7月14日京都の梅小路家の知人宅で生れた。父真田幸村は5月に戦死している。当時、隆清院と娘御田姫は大阪の陣に伴い残党狩りを避けて、故秀次の母(瑞龍院)の許に身を寄せていたというから、幸信は曾祖母の居所で分娩されたのであろうか。寛永3年(1626年)、姉の御田姫の嫁ぎ先の岩城氏の許に引き取られ、岩城宣隆の養子になり三好左馬之介幸信と称した。出羽亀田藩に仕え、380石を給せられた。幸信─隆長─隆長─隆矩─幸政─幸由─幸得─幸友─幸厚─隆長─隆矩─幸憲─幸和
     四男・権左衛門之親──之親は、真田幸村が和歌山の九度山に蟄居中に百姓の娘に産ませた子で、大阪の陣の前に生まれているが、2年後、讃岐国(=今の香川県~兵庫県の対岸の県)石田(細川)民部大輔国広に託され、成人して権左衛門と称した。しかし、「全讃史」では、「大阪城を脱出」した幸村が、その2年後に設けた男子としている。大阪落城後、細川国広を頼る。之親には一女あり、国広孫の太夫が之親の娘を娶ったという。之親の分家の系統である真田博明(真田六文会会長)氏によると、松代真田家(真田信幸)に記録が残っている。権左衛門之親─義国─春行─利康─康春─斉弘─康国─弘篤─弘包─弘?─長八郎─義光─義博、分家は康春─金右衛門─吉弥─初次郎─浪蔵─喜八郎─孫太郎─博明─博通
     五男・瓢左衛門──頴娃村郷土誌によると、真田幸村は、雪丸で島津家から与えられた居宅に住み、頴娃摺木在の百姓某の娘に身の回りの世話をしてもらっていた。幸村は、この女性と恋仲になり、女性は身ごもったが、落ち武者の身であり、申し訳ないと思い、頴娃大川の浦人某に嫁がせた。この結果生まれた子が私の先祖・瓢左衛門(ひょうざえもん)である。瓢左衛門─周八─佐平次─菊蔵─武右衛門─佐平次─菊蔵─市左衛門(長男)─三左衛門(三男)─吉村─幸一、菊蔵は、幕末になって藩主から苗字帯刀を許され、先祖真田の名前をもらって、真江田と名のるようになった。江戸時代後期、真江田菊蔵(2世)の子は、市左衛門、周八、三左衛門、児玉ヨシなど数人の女子である。長兄の市左衛門(故人)に実子がなかったことから、三男の三左衛門を養子にした。周八は、幸村から代々伝えられてきた「おねぐい」の鞍、親鷲上人直筆の掛軸等を家宝として持っていた。幸村の遺産はいろいろあったらしい。「おねぐい」の鞍は、秀頼から賜わったもので、「かごどん」(“鹿籠”=枕崎市の殿様、島津尚久の末裔)と酒飲み比べをして、負けたため、この「かごどん」に取られてしまった。このため、周八は、上京をあきらめてしまった。周八は、「難波」という武家の株を買い、池田清元衆議院議員邸に書生として下宿していたが、出世して30歳代で造士館(現在の鹿児島大学、旧制7高)の塾頭(学長)となった。それを引退してから、妻の(荒武)伊勢と共に故郷の頴娃町に帰って、栗が窪小学校の主席教員(校長)をしていたが、真田幸村の子孫ということにねたみを持つ近辺の人聞によって虐められた挙句、つけ火(放火)された。これをさけるように、晩年は、自分で建てた小屋に書物を運び込んで、読書三昧をして暮らしていた。周八の子は、常幸(カナダ)、元幸、秀幸、幸世、幸省、利幸、テイ(夭折)である。常幸はカナダに移住し、その娘・幸子は英国系米国人と結婚した。秀幸は、濵﨑本家に婿養子に入り、濵﨑姓に改姓した。秀幸の子については、存命中の者もいるので、匿名にさせていただきます。秀幸の子・秀男が私の父である。秀男は、周八の初孫であり、眞江田家の嫡流に当たる。

  3.  「あぐり」の子孫の系図を入れるのを忘れました。「あぐり」は行方不明とするサイトばかりですが、何故か真田六文会会長・眞田博明さんが調べた系図にはあぐりの系図が載っています。あぐり(三春城主源左衛門郷喜室)─郷行─郷成─郷晶─郷通─郷祖─郷教─郷與─郷約─郷弘─傳─郷信─郷昭

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