姫路藩の改革者、河合寸翁

寸翁は晩年の号、本名は河合隼人之介道臣。1767年、江戸後期に姫路城下の侍屋敷に生まれた。
そもそも、河合(川合)家は、前橋藩主だった酒井家の家老筋の家柄で、酒井家が姫路藩へ転封となった時に移って来た。
道臣は11歳で出仕し、20歳ころには家老職についていたという、生粋のエリート。

姫路藩は他藩にもれず、財政は赤字状態であった。その財政改革に手腕を振るったのが河合寸翁。
・藩内の質素倹約を徹底する
・固寧倉(義倉)を設け、飢饉などの災害対策を実施
・朝鮮人参、サトウキビなど高付加化価値商品の制作を推奨
・南部、播磨灘方面の新田開発を実施
・飾磨港などを整備し、貿易を推進
・姫路木綿、竜山石、皮、塩など特産品を指定し、従来の流通ルートを改革(直販)
等、様々な施策を実施し、27年をかけて藩の負債を完済するという偉業を成し遂げた。

さらに、晩年には人寿山付近に藩校とは別に私塾を開き、人財育成にも努めた。

人寿山にて静かに眠る

寸翁は、晩年を過ごした人寿山にある河合家墓所にて安らかに眠っている。
市川左岸を南に走る402号線沿いに石碑があり、そこから人がすれ違える程度の細い道を置くまで進むと墓所入り口となる。


コメントを残す