「総見院」といえば、織田信長公の戒名の一部であり、つまりは信長公を指す言葉です。
大徳寺の総見院は、羽柴秀吉が本能寺の変の翌年に盛大な葬儀を行ったところとして有名です。
その時に、信長公のご遺骸の見つからないため、2体の等身大の座像を作り、1体を荼毘に伏した。その木像は香木で造られていたため、その時は京の町中に良い香が広がったと言われています。
信長公とほぼ1メートルくらいの距離で拝謁させていただきましたが、写真撮影禁止ですので、表の看板の写真でご容赦ください。
境内の奥には、織田家一族の墓所があります。
信長公のお墓というのは全国でもいくつもありますが、帰蝶(濃姫)やお鍋の方、徳川家康嫡男、徳川信康に嫁いでいた徳姫のお墓まであります。
こちらの方のご説明では、この総見院は2度の存続の危機に合っています。
1回目は、大徳寺山門に造られた利休像を原因とした、利休切腹事件。
秀吉は相当な怒りだったようで、利休切腹だけでは収まらず、大徳寺自体の破却まで命じたようです。その時に、総見院開祖の古渓宗陳が、命を懸けて説得し、破壊を免れたとのこと。
2回目は、明治維新の時の廃仏稀釈によって、各地の寺社で建造物や宝物などが悉く破壊されてしまった時です。
こちらでも建物は破壊されてしまったようですが、今本堂にある織田信長公の木像やご一族のご位牌等、重要な宝物を本山に退避させて難を逃れました。
その後、信長公木造は、輿を作り、本山までお迎えの上、当寺院まで帰られたそうです。
なお、大手の門と向かって左側の土塀、右側の鐘楼(堀秀政寄進)は、秀吉の総見院創設時から残っているものです。