信長討死の地
1582年6月2日未明、桔梗紋の旗印約15000が京の本能寺を取り囲む。
そこには、天下人の織田信長が宿泊していた。騒動に気づいた近習・森蘭丸、坊丸、力丸らは状況を把握し、信長に注進、「殿!寺が取り囲まれております! 旗印は桔梗紋、惟任日向守様、御謀反!」。
「光秀か・・・是非に及ばす」、そういって信長は弓、槍を手に取り明智勢と斬り合う。
本能寺には信長の近習衆などわずか100名前後、衆寡敵せず、徐々に手勢を失った信長は奥へ入り、「蘭丸!ここまでじゃ、敵に首を渡すな!」と言い残し、自刃。享年48歳。
遺体は見つかっていないという。または、首は近くで信長の近親者でもある阿弥陀寺の清玉上人が受取埋葬したとも伝わる。おそらく、寺は火矢などで全焼したであろうと思うが、亡骸が判別不明になるほど消えてなくなるものだろうか。「見つからなかった」と伝えられていることも勝者の歴史。これをどう読み取るか?!
今の本能寺は秀吉が移築したものです。本来はここにあり、ここで信長は明智勢に囲まれた。
いまは石碑が建つのみ。石碑は油小路と蛸薬師で2か所あります。
発掘調査では焦げた本能寺の「能」(造りは去の字)の字が入った瓦などが見つかっている。