黒田の里、播磨西脇へ

久々の播磨支部の活動。今回は、播磨は北部の西脇市へ。
西脇はあの黒田官兵衛の「黒田家」の発祥の地の1つと言われているところです。黒田家の発祥は、近江であるとか、諸説あることはご存知の通り。
西脇説とは、どんなものなのか!?それを楽しんできました。

ツアー行程・概要

<日時> 2018年6月16日 10:00~16:00

<行程> 多田城=>松ヶ瀬(官兵衛母・受難地)=>黒田城=>姥ヶ懐(黒田家屋敷跡)=>荘厳寺=>喜多城=>兵主神社=>太閤腰掛岩=>北はりま道の駅エコミュージアム=>西脇城(政所)=>西仙寺

<参加者>6名

「多田城(構居)」

本黒田駅で集合し、互いに挨拶を済ませ、まず1つ目は多田城。多田構居とも言い、俗にいう城主や家臣の居住地域の跡です。館形式で堀や土塁に囲まれた居館だったようです。黒田城が詰めの城ということになります。

「松ヶ瀬」

多田城のすぐ西には加古川が流れています。ここは、黒田城が落城する折り、官兵衛と母は落ち延びようとしたが、母は加古川の増水により落命したという。於松という名から松ヶ瀬という地名となったらしい。

「黒田城」

黒田城は黒田家の本城。登城口から5分ほどで看板がある地点まで行けます。この先にも遺構と思われるものがいくつかあるようですが、明確な城としては判断が出来ていないようです。この日は先の予定もあるので探索はやめて、ここで我慢しました。次回は確認がてらさらに探索を進めたいものです。

「姥ヶ懐(黒田家屋敷跡)」

黒田家は多田構居の他に城の真下にも館があったようです。ここで官兵衛は生まれたという石碑があります。

「荘厳寺」

今日のメインディッシュはこちらになります。そもそも、西脇が黒田家発祥の地の1つとなったのは、江戸時代に黒田重隆の妻となったやや南部の比延氏の子孫が黒田家の系図を荘厳寺に奉納したところから始まっています。
寺内にその家系図のレプリカが展示されており、播磨守護赤松家から始まり、黒田家代々の一族が列記されています。
ちなみに、この荘厳寺は駐車場から山頂の本堂まで一直線の階段が、白壁と木々に囲まれた、名所です。この日は新緑が白壁に映え、天気も晴天ながら涼しい風が吹いていて、最高でした。秋の紅葉の時期には多くの人が訪れるようです。

「喜多城」

この城は、遺構がかなりはっきり残っていて、行ってみたいところでした。が、しかし・・・。道路建設により破城となる予定です。すでに発掘調査は終わっており、縄張りだけでなく、鉄器など遺物も多く出土したとのこと。せっかくなので、消えゆく城を歴史の証人としてしっかり目にしてきました。つくづく、なぜここでなくてはいけないのか?残念で仕方ありません。
調査した時の説明会の様子はusakumaさんのブログをご参照ください。

「兵主神社」

この神社は秀吉の播磨攻めの際に、黒田官兵衛に命じて改築させたと伝わります。珍しいのは社殿。総茅葺の建物です。また、裏手にある本殿の屋根、軒などの装飾も珍しく、作った人の力の入れようを感じました。

「太閤腰掛岩(極楽寺)」

極楽寺内には、播磨攻めの際に秀吉がここに腰を掛けたという岩があります。ご住職がわざわざお越しいただき、由来をご説明いただきました。ここあたり(黒田の庄より南方)は村上家の領地でしたが、三木合戦時には秀吉に与力し、言い伝えが残っているようです。お寺の屋根には村上家の「上」の家紋が光ります。

「北はりま道の駅エコミュージアム」

やっぱり、せっかく遠くまで来たんだから、なんかお土産欲しいよね!!ということで道の駅に。
週末で人も多くいました。私はでっかい瓦せんべいとおやきを。

「西脇城」

西脇城は方形居館の館城だったようです。高瀬氏が築城したという説や、高砂の梶原氏家臣の円山氏がいたという説など諸説あるようです。中心部はこの地よりすこし北部、より高台になっている上野という地域とのこと。遺構はありません。

西仙寺」

最後に、代々赤松家の人が住職を務めたという西仙寺へ。やはり赤松家の威光があってか、姫路城主池田家の手も入っているようで葵の紋も見られます。寺域は非常に大きく、ちょうど整備工事がされているようでした。


ということで、1日かけて結構な数を回りました。黒田の庄エリアは非常にのどかなところで、大きな開発が入っていないので、数百年前とあまり変わらない景色を見て回れたのではないかと思います。次回西脇へ来るときは、黒田城の奥や比延山城、石原城など周辺の山城を駆け巡る行程にしたいと思います。



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