教信寺と共闘した野口城主 長井政重公

加古川の戦国時代の1シーン。東加古川と加古川の間、西国街道沿いに野口城がありました。

野口城を居城としてこの辺りを治めていたのが長井氏(三木合戦当時は長井政重もしくは邦時)。当時はこのあたり一帯が沼地で、攻めがたく守りやすい城であったようです。

そして、古くから繁栄していた教信上人が建立した教信寺と共存し、共に外敵と戦いました。秀吉の播磨攻めの時には、三木別所氏の傘下であり、共に織田軍に抵抗しました。秀吉は三木城を取り囲みますが、なかなか落としがたいことを悟り、周辺の支城を落とし、兵糧道を断つ作戦に出ました。この野口城も攻撃対象となり、教信寺とともに戦いましたが衆寡敵せず、敗れました。

なお、他の説もありますが、野口城跡である祠近くに、長井氏の墓所もあります。

長井政重公の甲冑が出来ました。

まさに、その三木合戦の時の長井政重公の戦う様子が書かれた書物があります。

「城主長井邦時は黒糸威しの鎧にかちん(濃い紺色)のひたたれ頭形の兜を猪首に着なし、赤胴作りの刀帯びて、黒くたくましき馬に・・・・」

播州太平記から

この文章だけを頼りに、想像で創りました。

前述の文章を踏まえ、とりあえず黒糸で毛引き威しにしました。三具(籠手、脛当、佩楯)も基本は黒で統一です。(つくりはちょっと楽をしました・・・(笑))

問題は「長井政重公であることをどう表現するか!?」。

結果、前立てというシンプルな回答をしてしまいました。1つは教信寺との関りを現しました。教信寺さんは、いまは天台宗ですが、中世の時は浄土宗西山禅林寺派だったそうです。そこで、 浄土宗西山禅林寺派の寺紋である「竜胆車」にしました。(フリーで使えるものにしたので禅林寺さんのものとは微妙に違います)

もう1つは、長井氏の祖は大江氏という説があり、あの安芸毛利家と同じ祖先となりますので、「一文字に三つ星」のバージョンも用意しました。


加古川城糟谷武則公(朝正公)に次いで、野口城主長井政重公で2領目となりました。今後の加古川武将隊の活動に参戦と相成ります。

次は、神吉城主神吉頼定公にとりかかります。



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