このあたり、大学時代に幾度となく電車で通り過ぎたところ。
ここに、戦国の”何か”があることは、どこかで聞いていたのですが、なぜか寄る機会がなく、それを作らず・・・・。

結果、遠く1時間以上かけてくることになりました。

阪急京都線に乗り、崇禅寺駅で降りて徒歩5分ほどで到着。(もっと、はよきとけばよかった・・)
崇禅寺があります。

門構えは近代風ですね。細川家の菩提寺になっているので、でっかい九曜紋が輝きます。

 

入って、本堂の前を通り過ぎ、裏手には墓所があります。
ちょうど、本堂を回り込むように奥に行った先に、嘉吉の乱で赤松氏に害された足利義教公と細川ガラシャのお墓があります。
足利と細川の2つの墓碑がなぜ並んでいるのかわからなかったのですが、嘉吉の乱のときに赤松軍は足利義教の首をここに放置していったようで、それを時の管領細川持賢が伽藍等を再建したことで細川家菩提寺になったようです。なので、ガラシャもここなんですね。

ここで1つ疑問が・・。以前ご紹介した播磨小野の河合城。あそこには、赤松軍は義教公の首を城まで持ってきたと説明書きがありましたよねぇ。ん・・・首は将門のように飛んで行ったのか?
もしくは、河合城から坂本の方へ下る前に、幕府方に首を返却し、崇禅寺の地に来たのかもしれませんね。

少し時代が上がりますが、遠城兄弟の墓碑というのもあります。
大和郡山藩士の遠城宗左衛門は剣術の仕合で生田伝八郎という者に勝ちますが、それを逆恨みした生田が遠城を殺害します。遠城の弟はその敵討ちを試みますが、あえなく返り討ちに合ってしまいます。
それを哀れに思った崇禅寺住職と江戸町与力勝美宗春がここに墓碑を建立したそうです。

いつも思うのですが、ふつうは「歴史」として何かフィルターを通してこういうことを理解していますが、これがもし今なら、Topニュースで連日ワイドショー並みの殺人事件ですよね。

実はこの付近ではあと1つ、これまた頭にあったのに行かなかったところがあるんです。

また、大阪いかなあかんわ・・・。


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