三木合戦時の神吉頼定公に関する記載(神吉城の戦い)

神吉城(常楽寺)にある「神吉城攻防合戦之図」

織田家の中国方面司令官であった羽柴秀吉は、播磨で反旗を翻した三木城主別所家を攻めましたが、別所家に与する東播磨一帯の国衆の連携攻撃に攻めあぐね、まずは周りの別所方の城を1つ1つ潰す作戦に出ました。自ら率いる軍勢の他に、信長に援軍を依頼し、嫡男信忠を総大将に3万以上の軍勢が播磨の地に侵攻してきました。

東加古川の野口城(長井氏)を落とした勢いで、次は天正6年(1578)6月29日に神吉城を攻めます。神吉城を取り囲んだのは織田信忠の他、織田信雄・信孝、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、佐久間信盛など錚々たる顔ぶれ。

一方、神吉城に立てこもるは神吉民部大輔頼定公を大将に、頼之、貞久、定光ら一族衆を中心にわずか2000あまり。

「播州太平記」には、次の通り戦いのようすが記述されています。

大手の高櫓を開いて、29歳の若武者・神吉頼定公が側近96名を率いて打って出る。
卯の花威しの鎧に、燕尾の甲を小姓に持たせ、つま紅の扇を開いて言う、「潔く、討ち死にし、この城を信忠に明け渡してやるから、さっさと攻めて参れ!」
甲(かぶと)を被り、鹿毛の馬に白い鞍を載せて打ち乗り、一気に敵陣に攻め入る。
あっという間に300ほどを斬りつけ、さっと引き上げた。
引いた神吉軍に織田軍が攻寄ると、頼定公は馬を降り、秘蔵の菊一文字で切りつける。
「その太刀に向かうもの、一人も命なく」

播州太平記より

結果としては、衆寡敵せず、神吉城は攻め落とされ、頼定公も討死しました。
ここで重要なのは、これだけの兵力差があれば、勢いのある織田家に寝返ることは容易。戦国を生き抜く者としては当然の選択肢でもありました。(実際、播磨では織田方についたものもいます)
そんな中、三木別所家への忠義を貫き、死を覚悟して戦った播州武士がいたということです。

地元の方にも愛され、400年以上たった今もなお、頼定公の墓所は家臣たちに囲まれ、大切に守られています。

ちなみに、この後すぐに、ここから少し北の櫛橋氏の立て籠る志方城(観音寺)も降伏しています。

神吉頼定公の甲冑

三木も含めて播磨一帯の国衆が着用していた甲冑ほか武具というのは、私の知る限りほとんど残っていません。(もしかしたら、ひそかに関係する人が守っているかもしれませんが)
よって、甲冑を制作するにおいては、播州太平記や信長公記などの軍記物の記述をヒントにするほかありません。

今回のヒントは播州太平記にある「卯の花威しの鎧に、燕尾の甲 」という言葉。

キーワード1:「卯の花威しの鎧」

卯の花のように白を基調とした紐を使って、威された鎧という意味。「威す(おどす)」とは甲冑の部品を紐でつなぐ作業のこと。全体に卯の花色の威し糸を使って、制作しました。
なお、板物は悩んだ挙句、卯の花色を強調するためにも、錆地色もどきを想定したブロンズ色にしました。袖や草摺りは毛引き威しにしましたが、胴や𩊱は素掛けにしました。

キーワード2:「燕尾の甲」

燕尾とは燕の尾。甲とは「かぶと」と読みます。燕尾の甲で有名なのは、蒲生氏郷の兜。

これをマネするのは芸がない。また、この兜と同じように張り掛け(和紙や革で造形し漆で仕上げる手法)で作った場合、取り扱い(強度)や収納に困る。
ということで、悩んだ挙句、シンプルに前立てを燕(?)にしました。


この甲冑は、加古川武将隊の猛将 神吉頼定公として活躍してくれます。また、レンタル用としてもお客様にご利用いただけますので、ご希望の方はぜひご利用くださいませ。


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