吉田玄蕃の城、中ノ村城
<現地看板より>
天正時代(1573~1593)、この付近は香西氏の幕下で、中ノ村城主吉田玄蕃の居城であった。
当時、中央通りは香東川が流れ、その川を背にした出城であった、と古書に伝わる。
天正10年、香西氏は讃岐の国に攻め込んできた土佐の長宗我部元親の軍門に下ります。
玄蕃がそれまでの戦で戦死したかどうかは定かではない。ただ、この地所がその後現場の墓所になったといわれる。
現地は近代的な建物の小さなお寺で、吉田玄蕃の墓所とも伝わるお堂があります。
香西氏家臣、雑賀氏の城
香西氏の家臣であった雑賀氏が築城とのこと。中野天満宮あたりにあったというが、確かにやや高台になっていることはわかりますが、遺構なんていっさいがっさい、看板もございません。
これまた想像の世界です。
香西氏家臣、藤井氏の城
写真は隣の慈恩寺です。間違えて隣のお寺にいったのですが、城だからきっと広昌寺だけでなく、もっと広い城域だっただろうと思います。
遺構などはいっっっっさい、見当たりませんし、看板もありません。
想像の世界です。
城と言っているだけで居館に毛が生えた程度のものです。香西の直臣ではなく寄子だった地侍で香川県内にはこの様な国人衆の城とも呼べない小規模な居館跡が無数にあります。
郎党を全部集めても20人用意できるかどうかの小勢で守護細川京兆家の支配力が弱まり始めた頃に香西の様な有力国人領主の隷下に寄子として地侍が集まり始めました。
高松市には戦国時代初期の御家人崩れの地侍の城と称するツアーをしている人がいますが、城と居館の区別も付かないのはどうかと思います。
城クラスの砦を持てたのは土着の香西や香川、細川に臣従してきた有力直臣の安富や寒川だけです。
その他は取るに足らない小勢の地侍。
城なんて無いのに遺構が残るハズもない。
鎌倉、室町時代、侍所への訴えのナンバーワン案件が、勝手に砦を作ってる奴がいるから、止めさせて欲しいだった。
砦を作る=争いを起す気があるということ。
そういう気概のある地侍なんて讃岐には少なかった。
こんな、分かりやすい忍者なんかいねーよ。
日本人も何か忍者を誤認してるよね。