大坂の陣で散る

薄田兼相は豊臣家に仕えた武将。岩見重太郎ともいわれる。
大坂の陣では、遊郭で遊んでいる間に徳川軍に侵攻されたり、霧のため着陣が大幅に遅れ、先についた後藤又兵衛を討死させるなど、失態が多く、橙武将と揶揄されたという。
最期は道明寺合戦で本多、伊達らの大軍と合いまみえ、討死している。

お墓は子孫の方々が大事に守られており、子々孫々の方々の墓所ともなっています。


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