無念さを感じる

時の関白・豊臣秀次は秀吉の後継者として仕事をこなしていた。しかし、秀頼が生まれてからは疎まれるようになり、粗暴な行いもあったことから謀反を疑われ、高野山で蟄居となる。その後、秀吉の命令かまたは自らが選んだか、蟄居先で切腹し果てた。問題はその後で、秀次の子供らや妻女39名が三条河原で処刑されました。

その亡骸の塚が河原にあり、塚の上には秀次の首を入れた石塔に「秀次悪逆塚」と刻されていたという。ここ瑞泉寺は、江戸期に河川工事をする際に角倉了以が秀次塚を哀れに想い、寺を建立し、菩提を弔った。

お寺に入って右手の奥に、秀次公およびその時に一緒に亡くなった方々のお墓があります。なんとなく、その場にいると秀次たちの無念さを感じるような気がしました。この事件の正確なことはいまだ不明ですが、近江八幡の町の発展を見ると、秀次は優秀な武将であったと想像します。


コメントを残す