織田信長の協力により室町幕府将軍に。
もうご存知の通り、足利義昭と言えば室町幕府最後の将軍。
元は一条院の僧で覚慶と名乗っていたが、兄の13代将軍義輝が三好三人衆・松永久秀らに殺害されるにおよび、越前などに逃亡生活を送っていた。
そこに、織田信長が桶狭間で勢いをつけて近江方面に進出していたため、これを頼った。
見事に信長に担がれて入京を果たし、三好家に擁立されていた14代将軍義栄らが阿波へ逃亡したことで、15代将軍に就いた。
義昭がそのころ京での居所にしていたのが本圀寺であったという。本圀寺は過去の争乱から堀や土塁で囲んだ城の様な要害となっていたという。
信長は義昭を京に入れた後にすぐに美濃へ戻り、軍備の増強を図っていたため、そのすきに三好家がふたたび京の義昭を狙って進撃してきた。義昭は本圀寺に籠城し、畿内の明智光秀らの幕臣と摂津衆や織田家臣らの奮戦で三好勢を退けた。この後、居所は二条御所へと移ることになる。
遺構はほぼ無い。いまでは広大な敷地は西本願寺の領域となっている。石碑や説明看板もあるが、義昭のことは書かれていない。
なお、北側の五条通を渡ったところにある妙恵会総墓地には、松永親子の墓所がある。