長宗我部信親
長宗我部信親は、元親の嫡男で元親の後継者として非常に期待をされていた人物。
1565年の生まれで、母は元親の正室で、足利義輝の家臣・石谷光政の次女。姉は明智光秀家臣の斎藤利光の異父妹にあたり、ここで長宗我部と明智家の縁が生まれている。
なお、信親の「信」は織田信長から偏諱を賜ったもの。
秀吉による四国征伐後、九州征伐への出陣命令が下り、父・元親とともに戸次川で島津勢と戦う。
総大将は讃岐を領した仙石秀久。戸次川で島津勢と対峙した際、仙石らは渡河侵攻を主張し、長宗我部軍は援軍を待つべきと主張したが、受け入れらなかった。
この時、信親は「信親、明日は討死と定めたり。今日の軍評定で軍監・仙石秀久の一存によって、明日、川を越えて戦うと決まりたり。地形の利を考えるに、この方より川を渡る事、罠に臨む狐のごとし。全くの自滅と同じ」と叫んだという。(『土佐物語より』)
結果、仙石勢は総崩れし退却、長宗我部勢は抗戦するも大敗。元親は土佐へ退却できたものの、信親はここで討死してしまう。22歳という若さであった。
最愛の信親を失った元親は、以後人が変わったような生活になったという。
信親は高野山へ葬られたが、一部分骨して土佐でも墓所が儲けられた。現在は、長浜の雪蹊寺にある。
香川和親
香川和親は、1567年生まれで、長宗我部元親の次男。元親が讃岐に侵攻時に西讃岐の守護代・香川家へ次男を養子として送り込み、以後香川親和と名乗った。
秀吉の四国征伐時に香川家は改易となり、一旦大和郡山へ身を預けられるが、すぐに土佐へ戻る。
ほどなくして、戸次川の戦いで兄の信親が討死すると、秀吉からは親和に家督を継がせるよう指示があったが、元親は拒否し、四男の盛親に継がせた。
このことが契機になったのかどうかは不明だが、親和はすぐに命を落としている。病気、自害、毒殺など諸説あるが、和親の墓所だけが独立してあるのが意味深である。(長宗我部一族の墓は、このすぐ近くにある)