175号線沿いの城
明石駅から175号線を北上。
第二神明道路をくぐって、もう少し北へ向かうと、福中城があります。
この城は175号線の工事とともに、ほとんどの遺構がふっとんだようです。
いつも思いますが、三原の三原城も新幹線が思いっきり真ん中をつっきったり、長篠城も鉄道が真ん中をつっきっていたり、なんでわざわざ史跡をこわすような計画をするのでしょうか。
どうしても、ちょっと迂回するなりできないのであれば仕方ないですが、そうでもないところが多い。
歴史ファンとしては、残念でしかたないし、こういうことをするから地元の歴史が消えていくんです。地元の誇りが消えていくんです!!
と、熱い話は置いといて。
行くとすると、宝珠寺というお寺に向かってください。道路沿いにふいに看板があります。そして、この看板の矢印が示す通りに左の細い道を入ると丘を登って、そこがお寺ですが、自転車できたら、看板近くに止めておいたほうが良いです。なぜなら、奥まで行くと自転車の向きを変えられません・・・・。
もしくは、もう1つ先の交差点からコの字型にちょっと迂回するように回ればお寺の正面につけられます。
このお寺は城主間島氏の菩提寺となっており、墓碑がありますので、お参りします。
間島氏は赤松一族で、この地を治めていました。赤松氏の没落とともに凋落し、戦国期は三木別所氏の影響下にあったと思われます。
秀吉の播磨侵攻に際し、父は三木別所氏の三木城に籠城、息子は秀吉方につくという、おなじみに生き残り策をとり、結果その後は秀吉の家臣として小さいながらも家をつないでいます。
破壊された城
ただし、このお寺は福中城の城域の外、北側に位置するようです。
福中町の里づくり協議会資料によると、このお寺の地名は福中町平瀬で、当時の家臣平瀬氏の館跡ではないかということです。
城域はこのお寺から南一帯。175号線に福中という交差点がありますが、そこを中心として城があったようですが、前述のとおり国道建設でいまはまったく想像もしづらい状況です。
下記写真よりももう少し引いた地図で見ると、城の南から西に向かって明石川、東に向かって櫨谷川が流れ天然の外堀の役割をしていたと思われます。内堀としては、餃子の王将の南に小川があり、それが国道を渡ってお寺の南を流れていますので、そこが堀跡ではないかと想像します。