三木合戦の発端、加古川評定

加古川駅から南西に徒歩15分ほど。 幹線道路を少し入ったところに、称名寺というお寺があります。ここがかつての加古川城。城主は糟谷(加須屋)氏。

糟谷(屋)(加須屋)氏は源平合戦で功を得た関東武士で、鎌倉時代にこの加古川の地を賜り、移り住み、代々この地を治めていました。


戦国時代、織田家の家臣、羽柴秀吉が播磨に攻めこんできました。その時、大方の播磨の武家は織田方に与したのですが、まさにここ加古川城で開かれた「加古川評定」で大事件が起きます。
加古川評定は、織田方がさらに西の毛利をいかに攻めるかを話し合う軍議の場。そこで、秀吉と当時の東播磨一帯の太守であった三木城主別所家が喧嘩します。
結果、秀吉と三木別所家の戦いが始まるのですが、東播磨の武士たちはほとんどが三木別所家と共に織田軍と戦う道を選びました。
糟谷家では、兄弟がお家を残すために敢えて敵味方になります。 兄の朝正は三木城に入り、平井山攻めで討ち死にします。弟の武則は秀吉配下となり、野口城攻めなどに加わりました。
結果、糟谷家自体は羽柴家臣として残り、本能寺の変後、賤ヶ岳の戦いで大活躍し、「賤ケ岳七本槍」の一人となり、武名を上げました。
しかし、関ケ原の合戦では西軍についてしまい、加古川の所領は没収となりましたが、糟谷家の人々は違う職業を選んだり、別の家に仕官したりし、脈々と続いています。

称名寺には、裏に糟屋家の墓所もありますので、加古川の英雄のお墓詣りをしてみてください。


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