かつての明石の城下町
明石城ができるもっと前、 それまでの明石の中心は、いまの西新町あたりの船上(ふなげ)という地区にあった、船上城でした。
秀吉の家臣である高山右近が摂津高槻城からこの地へ入ってきました。キリシタン大名であった右近の影響もあり、キリシタンが増えると同時に、元いた寺社たちはキリシタンによって地位を奪われることを恐れ、大坂までいって秀吉に直訴して友伝わります(秀吉は右近の方針を支持)。
また、右近よりも前は三木の別所氏の影響が強く、別所吉親が城主であったこともあると言います。
西新町駅から西方に徒歩5分ほど、718号線沿いに明石税務署と明石警察署が向かいに並ぶ明石警察署前という交差点があります。その1つ先の信号を南に入ると、神明町自治会館という古めの建物が右手に見えます。その裏手奥に船上城があるのですが、そのまま前進し、小さな交差点を右へ、すぐ右側の若松商店を右に入ります。
進むと道路は左に折れていますが、正面の住宅の右わきに田んぼ道が続いていますので、そこを入っていくと左手に祠が見えます。
この船上城の築城については諸説あります。
1つに、三木別所氏の別所長治の叔父、別所吉親(加古川評定に出た人物ですね)が、三木城の支城として築城したと言われています。当時は林ノ城と言われていたようです。
秀吉の播磨攻めの時に落城し、その後何名か城主が入れ替わり、秀吉の天下統一後に摂津高槻から高山右近が入り、船上城として城郭を堅固にし、城下町を作りました。
東は明石川を天然の堀とし、播磨湾を利用し、大坂へ向かう船の中継港町として発展しました。
その後、高山右近は伴天連追放令で退去し、関ケ原後には姫路藩の支城の位置づけとなりました。
大坂の役後の一国一城令で廃城となり、建築材として天守が明石城の巽門、侍屋敷の長屋門が家老織田家の長屋門など、再利用されたようです。
遺構は、祠のある本丸跡の郭台地が削られ、削られ、わずかに残っています。
あとは用水路となっている堀跡くらいです。
祠の南側の土手に石垣?の残りかも? ん~~違うかなぁ。
明石の歴史の大きな一部を成す、この船上城をもっともっと良い形で発信、遺せればと思います。
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