上月城
ここは播磨、備前、美作の国境が近い、ザ・要衝の地。繰り返し争奪戦が繰り広げられています。
1300年代に赤松一族上月氏が築城。嘉吉の乱で赤松一族と運命を共にし、滅亡します。
その後、再興した赤松氏の赤松政範は赤穂、揖西・東、宍粟、佐用の5郡を有し、「西播磨殿」と言われるまで勢力を回復するも織田家の侵攻により落城。その時宇喜多勢が赤松の援軍に来るが返り討ちにあっており、それを語る碑が本丸に建っています。
その後、宇喜多家配下上月氏が入るが、再び織田家の侵攻で落城、尼子家が入る。
三度、宇喜多や毛利の攻撃を受けた際に、摂津の荒木村重謀反などが発生。見捨てられる形となり、落城した。尼子勝久は自害、山中鹿之助も備後にて誅殺されるという悲しき結末。
現在は、麓の資料館に資料や情報があり、そこから30分もあれば登れる。
遺構も廓や堀切など比較的良く残っており、麓には尼子勝久一党を供養する顕彰碑が建つ。
この付近には秀吉が築いた付城や陣所などが多く散在します。