鎌倉時代に築城

この城は、鎌倉時代、源頼朝の富士野の鷹狩にお供した海老名氏がこの地を与えられ、城を築いたとつたわります。海老名市は元は源氏で相模海老名の地名を名乗った武家。
その後時代を経て、海老名氏は播磨守護の赤松家の家臣となり、白旗城に立てこもって新田義貞軍と戦ったという。しかし、留守中にこの城は襲撃され落城したと伝わる。

白狐の伝説

この地は白狐に関する伝説がいくつか残っています。
その1つは、前述の源頼朝に海老名氏がお供をした際、前日に海老名弾正は夢に白狐が出てきて、「明日は私を射らないでほしい。もし射たら、末代まで祟ります」と告げられ、弾正は夢の中で「射らない」と誓った。そして、鷹狩の日、夢で見た白狐が現れた。頼朝は「あの白狐を射よ」と命じたが弾正は躊躇っていた。すると頼朝が「狐を射らないなら、誰か弾正を射よ!」と命じたため、弾正はついに白狐を射殺した。頼朝は称賛し、備前那波(相生市大島)を与えたという。


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