兵庫県明石市の西側にある魚住。ここは、奈良時代に行基が開いた摂播五泊の一つであり、昔から重要な港町。

<摂播五泊>
・室生泊(たつの市御津町)
・韓泊(姫路市的形町)
・魚住泊(明石市大久保町)
・大輪田泊(神戸市兵庫区)=>ご存知、神戸の前身
・河尻泊(尼崎市神崎町)

戦国時代も当然、重要な港町。ここを治めていたのが播磨守護赤松家の一族である魚住氏。
播磨では古くから勢力を張る家柄で、姫路の廣峯社にも関わる。

三木合戦の時は、赤松家の重臣であった三木別所氏に味方し、毛利家から来た船に積まれた兵糧などの物資をここで陸揚げし、北の三木城へ物資支援を行っていたようです。
しかし、このルートも秀吉方にばれてしまい、三木の南側には多くの砦が築かれ、以後は物資を届けることができなくなりました。
結果、三木城別所氏は敗れ、魚住氏も滅亡したと伝わります。この魚住近辺では三木方に味方したとして報復として多くの住民が惨殺されたなど怖い伝説もあるようです。

魚住城はどこ?

その魚住氏の城、魚住城はいったいどこなのか。いまでも定かではありません。
2つの候補があります。1つは、魚住よりもやや東より、いまは住宅地にある普通の公園となっており、その隅にこの立札がある。すこし高台にあるというのが、かつての名残でしょうか。  

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もう1つが、魚住駅の真南、海に面している住吉神社。
藤の花や紫陽花で有名な神社です。
ここも250号線から向かうとわかるように、高台になっており、神社の領域も広くなっています。

前述の通り、まだ結論は出ておりませんが、個人的には古くは住吉神社の領域が城であり、三木合戦が始まると、船の接岸や物資の陸揚げを考慮して、やや東側の高台にあらたに城・砦を構えたのではないでしょうか・・・あくまでも勝手な想像ですが。



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