この記事のポイント!
・「播磨」といえば「赤松氏」と言っても過言ではない
・「赤松氏」は佐用郡赤松庄を領地とした一族が「赤松」と名乗ったのが始まりだという
・鎌倉幕府を討伐する後醍醐天皇や足利尊氏に協力したから、播磨・美作・備前・摂津といった大きな領地を得た
・室町幕府では、四職という要職の地位を務め、かなり繁栄していた
「赤松氏」の出自
「赤松氏」とは誰なのか?
「三木戦史」には、「村上天皇第七皇子具平親王より八代の孫である季房のときに、播州佐用郡赤松庄に封ぜられ、これより赤松氏を称えた。」とあり、天皇の子の子孫が武家となり播磨佐用の地名「赤松」を名乗ったというのが始まり。
全国の武家には系図や出自を示す文献などがあります。しかし、それが正しいのかどうかは不明なことが多い。赤松氏も同じで、その出自には諸説あります。
鎌倉幕府打倒と立身出世
北条得宗家の繁栄
鎌倉幕府はご存知「源頼朝」が平家を滅ぼし、征夷大将軍となって鎌倉に開いた政権体制。しかし、源氏は頼朝の死後、頼家、実朝と3代で絶え、以後は藤原摂関家や親王皇族が将軍職を継いだ。その間、実質的な権力を握っていたのが頼朝の妻北条政子の家系である北条得宗家。「執権」という地位を確立し、政治を恣にしていました。途中、後鳥羽上皇の反乱(承久の乱)や元寇の襲来などがありながらも長い間栄華を極めましたが、14代執権北条高時の時に終わりを迎えます。
後醍醐天皇の「建武の新政」
執権北条家打倒の旗を挙げたのは後醍醐天皇。政権を朝廷に取り戻すべく、公家などと反乱を企て、一時隠岐の島へ流罪となるも、名和長年らの協力で脱出、再び挙兵する。
一方で、御家人として北条家に仕えていた各地の武家も北条家に対する不満は高まっており、河内の楠木正成、新田義貞、足利尊氏などが後醍醐天皇を支持し立ち上がった。その中に、播磨の武将、「赤松則村(円心)」がいました。
赤松円心は、後醍醐天皇が隠岐に流されたとき、皇子の護良親王(当時、天台座主)が組織した勤皇党にいち早く参加し、佐用の苔縄城で挙兵、播磨・備前の境にある三石城主伊東氏を破り、摂津に入ると摩耶山や十善寺に城を構え、京の六波羅軍(北条軍)と攻防を繰り広げました。その後、京六波羅まで攻め上がり、東から攻めてきた足利尊氏と共に北条軍を京から追い出すという大手柄を立てています。
さらに、隠岐から脱出した後醍醐天皇を新宮の千本構で迎え、京都まで護送するという役割も果たしました。
その結果、「播磨の守護」に任ぜられたのです。
赤松氏の栄華
後醍醐天皇による鎌倉幕府討伐と建武の新政がはじまったのもつかの間。北条軍の残党征伐をした足利尊氏が勝手に恩賞を与えたことなどで、後醍醐天皇と対立するまでに発展。尊氏は九州まで落ち延びることになる。
播磨の赤松円心は一貫して足利尊氏に与力し、尊氏討伐軍として西進してきた新田義貞の大軍を白旗城で迎え撃ち、防戦した。その間に、九州で力を蓄えた尊氏は、再び京へ進軍し、湊川の戦いで撤退する新田義貞や楠木正成を破るなどし、京に入って再び政権を取り戻し、征夷大将軍となった尊氏は室町幕府を開く。
この功績で、赤松家は「播磨・備前・美作(一時は摂津も)の守護大名」として大勢力となりました。
資料出典元:
・三木市観光協会の「別所氏と三木合戦」
・Wikipedia
関連史跡スポット
多くあるスポットの中で、いくつかピックアップしてご紹介します。
史跡名 | 場所 | 概要 |
---|---|---|
白旗城 | 兵庫県上郡町 | 赤松氏の居城の1つ。新田義貞の大軍を退けた「落ちない城」。 |
感状山城 | 兵庫県相生市 | 白旗城の支城(瓜生城)で、赤松則祐が城主。新田軍の猛攻を耐え抜いた。 この戦功で足利尊氏が感状を与えたことから、感状山城と呼ばれるようになった。 |
宝林寺 | 兵庫県上郡町 | 赤松家の菩提寺。お寺には円心の兜と伝わるものや赤松円心像などがある。 |
常厳寺 | 兵庫県三木市 | 常厳寺は、赤松円心則村が三木の地に建立したという。 円心はこのお寺の裏手に葬られたという伝えがあり、墓所があります。 |
湊川神社 | 神戸市中央区 | 足利尊氏と後醍醐天皇の対立の中、天皇側についた正成は九州から盛り返してきた 足利軍を相手に善戦するも、ここ湊川で敗れ、弟の正季公と刺し違えて自害。 入ってすぐ左には宝物館があり、正成公着用の甲冑などもあり、見ごたえがあります。 また、本殿左奥にはご自害なされた地が丁重に祀られており、 社務所にお願いすれば拝見することもできます。 |
滝山城 | 神戸市中央区 | 赤松円心が京の六波羅軍と戦うときに籠城したと伝わる。 後年、三好家の家臣・松永久秀や篠原長房が城郭を拡張した。 |