②「嘉吉の乱」と赤松氏の衰退


この記事のポイント!

・足利幕府6代将軍・義教は「くじ引き将軍」
・義教は「万人恐怖」と言われる強権な(依怙贔屓な)悪政を行い、武家は恐怖した
・当時の赤松家当主・満祐は、義教の矛先が自分へ向かってくることを恐れ、先に手を打つことを決めた
・幕府追討軍に敗れた赤松家はここで一時滅亡となる

「くじ引き将軍」6代将軍・足利義教の誕生

政権争いというものは、永遠に終わらないもの。

鎌倉幕府を倒し、建武の新政を打ち立てた後醍醐天皇と足利尊氏が対立、足利尊氏が勝利して室町幕府を成立させるも、今度は足利尊氏と弟・直義が対立する「観応の擾乱」(足利幕府の内紛)が続きました。

それから足利幕府も尊氏から2代義詮、3代義満と世代が変わり、6代義教の時、円心からひ孫にあたる赤松満祐の時代に事件は起こります。

義教は、前将軍義持の死去と嫡子の早世により、嗣子がいなかったため、出家していた義持の弟4名からくじ引きで決めたため「くじ引き将軍」とも言わる人。

将軍の権威を強化しようと重臣の守護大名である斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏などの家督相続に強引に手を入れたり、公家たちの所領を没収したり、場合によっては謀殺したりなど強引な政治を行い「万人恐怖」と言われました。

赤松満祐と義教は、当初は良好な関係だったようですが、次第に権力を強め始めた義教は、満祐の弟の領地が没収したり、自身の播磨や備前も没収、さらに暗殺計画があるといった不穏な噂が出始めます。疑心暗鬼となった満祐は、関東での乱(結城合戦)鎮圧の祝賀会と称し、西洞院二条にある自邸へ義教ほか当時の幕府重臣を招き、将軍義教ほか、その場にいたほとんどの者を討ち取ってしまいました。

幕府討伐軍との戦い

義教を害した赤松勢は、首級を槍に引っ提げて本領播磨へ帰っていった。一方幕府は大混乱しており、しばらくして漸く赤松追討の軍を播磨へ派遣。幕府軍は管領細川氏指導の元、実質は山名勢を主力とし、摂津方面(東側)、但馬方面(北側)、美作方面(西側)から同時に播磨へ侵攻しました。

赤松勢は本拠地の坂本城に帰還し、摂津神戸や明石の人丸塚あたりで抗戦するも敗退。坂本城はいわゆる政務所のようなところで堅固ではないので、龍野にある城山城(きのやまじょう)へ籠城します。

しかし、衆寡敵せず、赤松満祐は子の教康ほか一部の一族を逃し、その他約70名の一族とともに自害し、ここに赤松家は一時滅亡した。ちなみに、この教康は伊勢の北畠家へ逃れるが、幕府からの処罰を恐れた北畠家は教康を見放し、彼もここで自害しました。

次回予告

次回は、滅亡の憂き目にあった赤松家。その後の混乱の中での再興と関連スポットをご紹介します。

関連史跡スポット

多くあるスポットの中で、いくつかピックアップしてご紹介します。

史跡名場所概要
光明寺山城兵庫県加東市足利尊氏と弟の直義の戦いである観応の擾乱の舞台。
播州清水寺兵庫県加東市1800年前に天竺の僧、法道が創建したとされる由緒ある寺院。南北朝時代、赤松家の中で唯一南朝に忠誠を尽くした赤松氏範が最期を迎えた場所。
松岡城(勝福寺)神戸市須磨区足利尊氏と弟直義の対立、観応の擾乱の際に、直義軍に敗れた尊氏と
執事・高師直が背水の陣を敷いた城と言われています。
河合城兵庫県小野市嘉吉の乱で将軍足利義教を討った赤松満祐は首をもってこの城に凱旋したと記されています。
大蔵谷城兵庫県明石市嘉吉元年(1441)に、赤松円心の孫・祐尚が大蔵谷に陣を構えたと言われる場所。
善防山城兵庫県加西市嘉吉の乱の時期、赤松家の則繁が築城と伝わる。
城山城兵庫県たつの市(前期)赤松家最期の地。
安国寺兵庫県加東市嘉吉の乱で赤松氏が将軍義教公を弑逆し奉り、播磨に退却してくる途中にここにより、丁重に葬儀を行ったと言われています。(諸説あり)

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衆長

武楽衆の衆長です。 日本全国を戦国リアルシュミレーションの舞台とする野望を追究します。

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