土塁が残る、館城
石野氏は、播磨守護赤松円心の嫡男、範資の子、光範の家系が石野氏を名乗る。
三木合戦の時代には別所家の影響下にあったとされる。
三木合戦の後、徳川幕府の旗本として家を繫いだということなので、三木合戦時には秀吉方に下っていた可能性が高いか。
国道20号線を三木市から加古川宗佐方面に向かっていると左手に突然、高めの土塁が見える。
いかにも!という感じなのですぐわかります。
国道沿いに高い土塁とさらに一段と高くしている櫓台らしきものが明確にわかります。
館中心部には西大歳神社が立っています。
以前は木々が生い茂り、草も多かったようですが、今は木々は伐採され、草も刈られ、裸城のような状態になっていました。
見やすいのはうれしいのですが、何か開発でもあるのかと少々不安ではあります。
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