宮本伊織貞次

宮本武蔵は実子が無く、二人の養子がいた。
1人目は武蔵が大坂夏の陣で水野家の客将として参加していた縁で、家臣の中川志摩の助の三男・三木の助。2人目が、播磨米田の田原久光の次男・伊織でした。

伊織は播磨高砂米田の田原家の生まれで、武蔵の養子となり、明石城主小笠原家に出仕。若くして家老職まで上り詰めます。小笠原家が小倉へ転封(異動)になった際に同行し、島原の乱にも出陣。ついに、小笠原一族を超えて筆頭家老にまでなりました。以後、明治維新までその地位は変わらなかったと言います。武蔵亡き後、先祖の供養や主家の繁栄を願って、 故郷である播磨で米田天神社と泊神社の社殿再建を行い、石灯篭・三十六歌仙の額を奉納しました。泊神社の社殿再建の際に、「棟札」も奉納しており、ここに宮本武蔵・伊織の出自についての記載があることで耳目を集めました。

泊神社と棟札

泊神社を再建する際に、灯篭や和歌などを奉納していますが、棟札も奉納しました。そこに、宮本家の出自に関する記載があることで、耳目を集めるものとなりました。はたして、この記載と別の書物に記載の事項との関係性・整合性はどうなのか?いろいろ想像・妄想することが出来ますね。

余(伊織)の先祖は62代の村上天皇の第七王子の具平親王の系列で、赤松氏の出である。 先祖の刑部大夫持貞の時、運がふるわなかった。故に、その顕氏(赤松)を避けて、 田原に改称して、播州印南郡米田村に住み、子孫代々ここに産まれた。 曽祖父は、左京大夫貞光といい、祖父は家貞といい、父は久光といい、貞光以来、相継いで、小寺それがしの麾下(家来)に属してきた。 故に、今も筑前に於いて子孫を見る。
作州に神免なる者がいたが、天正の間、あと嗣ぎが無いまま、筑前秋月城で亡くなった。 遺を受け家を継承したのを、武蔵掾玄信といい、後に宮本と氏を改めた。 また(武蔵にも)子が無いため、余が養子となった。 ゆえに余は今はその氏(宮本)を称している。
余の結髪(元服)の頃、元和年間に、信州出身の小笠原右近大夫源忠政と、播州明石で主として関わり、今また豊前の小倉で従っている。木村・加古川・西宿村・船木村・西河原村・友澤村・稻屋村・古新村・上新村・米堕・中嶋・鹽市(と枝村の今在家村・小畠村・奥野村・小河原村)・今市、総17村の氏神を、泊大明神と呼び奉っている。 古くからの伝えに云う所、紀伊の日前神を勧請し奉っている。 しかも、米田には、また別に菅神を崇っているのである。 近頃二社ともに、ほとんどくずれ朽ちている。 余の一族は深く嘆いている。 故に、一つは君主の家の運栄久を奉祈し、一つには父祖世々の先志を慰めたいと欲する。
しかるに謹んで告げる。家兄の田原吉久・弟の小原玄昌、及び田原正久などと、匠の技をしたがえて事をなし、今ここに新しい二社を得た。その神の威厳を人が天から得るにおいて、具えることは一つも無い。 いわゆる、心称誠道とはこれである。 ならば則ち祈らなくともただ従って、その神護は知ることは可能である。 ただしかるに、常人の質は皆、天の徳をかくしている。 しかもその初め、ほしいままに純一で赤い願いではできない。 運を祈り、志を継ぎ、神と人の感通を仰ぎ願う。その玄昌が小原の氏者となったのは、摂州有馬郡小原城主の上野守信利、その後嗣ぎ信忠、私を生んだ母一人で、男子が無く、天正の間、播州三木城主の中川右衛門大夫に従い、高麗で戦死したに到。 故に、母の命にしたがい、玄昌にその氏を継がせたという。
時に承応二(癸巳)年五月日、宮本伊織源貞次、謹白

泊神社棟札内容を抜粋

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