この記事のポイント!

・淡河は、当時は播磨国美嚢郡で鎌倉から淡河氏が納める歴史ある土地
・別所氏の親戚である淡河氏は、三木城へ兵糧
物資の支援をしていた
・秀吉の弟秀長勢が攻め寄せてきた時、牝馬を使った奇策で撃退したが、その後は大村合戦で討死した

淡河城と淡河氏

淡河という場所は、現在は兵庫県北区にあるが、当時は播磨国美嚢郡であった。
鎌倉時代、執権北条氏の一族がこの地を治めることとなり、地名の淡河を名乗ったことから淡河氏がはじまる。三木合戦当時、淡河城主は淡河弾正定範公。三木城主別所就治の娘を正室に娶り、別所家とは姻戚関係の間柄。三木城に東側の一角を担っていた。

迫りくる羽柴軍を奇策で打ち払う

別所家が三木城に籠城してから、毛利家が海路加古川や魚住などから兵糧や武器などを荷揚げし、三木城内へ継続的に入れていた。
もう1つ、東側では織田家の部将であった摂津有岡城の荒木村重が謀反したことにより、摂津方面から丹生山などを通じて、淡河からも兵糧・物資の補給をしていた。そこで、秀吉方は糧道を断つために、丹生山を焼き払った。

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この時、丹生山の北側にある淡河定範はそのうちこの淡河城にも秀吉が攻め来ることを予測し、家臣に防衛に当たらせた。
馬房柵を建て、車菱を撒き、落とし穴や逆茂木を置いた。
そして、近隣から牝馬を50~60匹ほどかき集めていた。

そこへ、羽柴秀吉の弟、秀長を大将とする軍勢が攻めてきた。
まず、「淡河勢は朝から道の普請をしており、油断している」と流言飛語をまき散らした。
好機とばかりに、羽柴勢が攻め寄せてくると、淡河勢は怯えたマネをして一斉に城内に引く。それを追ってきた羽柴勢は、車菱にひっかかったり、逆茂木に邪魔されたりなど、隊列を乱す。
そこに、城内から50人ばかりの歩兵が打って出ると、羽柴勢は騎馬武者を繰り出してきた。
ここぞとばかりに、城内に集めておいた牝馬をうち放つと、羽柴勢の馬は興奮し、主を投げ出し、踏みつけ、大混乱となった。
さらに、城内に控えていた別の隊が突進し、多くの羽柴勢を討ち取った。

知略の将の最後

この戦いに快勝した淡河勢でしたが、羽柴勢が再度攻め寄せてきた時には衆寡敵せずであることは悟っていた。
そこで、一族郎党を引き連れ、三木城内に籠城するために移動した。
三木合戦の局地戦である大村合戦に出陣した淡河勢は劣勢だった。定範も手傷を負い、家臣5名ばかりとなった。
追い詰められた淡河勢は互いに刺し違えて自害したふりをし、近づいてきた敵兵を突如襲撃、蹴散らしたあと、獲った首をそれぞれが膝の上に置き、自害したと伝わります。最後まで権謀術策を使い、一振りでも敵に損害を与えた猛将・勇将であった。

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史跡名場所概要
淡河城兵庫県神戸市北区旧播磨国美嚢郡にあった城。鎌倉時代から続く由緒ある淡河氏の居城。
淡河家廟所 兵庫県神戸市北区 淡河城内にある淡河家の廟所
淡河弾正戦死の地(八幡森史跡公園)兵庫県三木市淡河定範公が大村合戦で最期の地となった場所。

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