この記事のポイント!

・秀吉は三木城および支城ネットワークの手ごわさを悟り、支城を先に落とす作戦に変更
・織田家当主(信長は隠居)である信忠自ら援軍として播磨へ出陣し、支城攻撃および平井山に陣所を構築(のちに秀吉が守備に入る)
・織田家の援軍を得て、支城を撃破し、三木城周辺に陣城を構築することで「三木の干殺し」がはじまる

竹中半兵衛の策

別所方に付き、東播磨各地で抗戦する武将たちのネットワークにより、羽柴勢は攻めあぐねていた。そこで、秀吉は先に支城を落とす方針に切り替え、織田信忠などを総大将とする織田家の主要な武将が参加する大援軍を得て、加古川野口城を皮切りに、次つぎと支城を落としていった。

(支城戦)野口城の戦い:教信寺との共闘
(支城戦)神吉城、志方城の戦い:
(支城戦)高砂城の戦い:海軍の将・梶原景秀(景行)、海上より三木城を支援す
(支城戦)淡河城の戦い:知将・淡河定範、羽柴軍を一掃す!

手足をもぎ取られていった別所氏は窮地に陥り、苦しい籠城戦を強いられる。この時、秀吉の「両兵衛」と称される軍師の一人、竹中半兵衛重治が献策したと伝わるのが、「三木の干殺し」。
三木城周辺に陣城(付城)を築城して取り巻き、さらに西の毛利家や東の本願寺などから入ってくる兵糧・弾薬補給を防ぐために防御網を張り巡らすことで、三木城を兵糧攻めにした。

織田方の拠点:平井山陣所

陣城を築くのは簡単ではない。7000人程度だったと言われる羽柴勢だけでは人手が足りず、当時すでに信長から家督を譲られて織田家当主となっていた信忠が築城指揮を執ったと伝わる。
信忠から引き継いだ秀吉は、ここを三木城攻めの拠点として、以後約1年にわたる長期戦を戦うことになる。

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史跡名場所概要
平井山付城兵庫県三木市織田信忠が三木城包囲網の拠点として築城したと伝わる。後に秀吉が引継ぎ、三木の干し殺しの拠点とした。
平井村中村間ノ山付城兵庫県三木市秀吉の本陣の北側に竹中半兵衛重治が陣所としていた場所。

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