播磨三木の別所氏は、赤松家の庶流であり、秀吉の播磨攻めの時にも強大な勢力を誇っていました。小野、加西、加東、加古川、明石など東播磨一帯はほとんどが別所氏の配下となり、支城としての位置づけとなっていました。ただの領主ではなく、善政をしていたのか、三木合戦ではあの強大な織田信長を敵に回しても、そのほとんどが三木別所家を裏切らず、共に戦いました。
その別所氏の居城が三木城。別名は釜を伏せたような形をしているので釜山城。
播磨では、英賀城、御着城とならぶ播磨三城と言われる大きな城でした。
最寄り駅は神戸電鉄「三木上の丸駅」
神戸電鉄線の三木上の丸駅を降りたら、目の前です。入口はいくつかあります。
駅を出て左手の商店街の入り口スグに城址に上る階段があります。
商店街をそのまま進み、50mくらい先の神社へ上る階段、その横の舗装された道路道。
逆に駅から右に出て、神戸電鉄の線路をくぐり、保育園の方から入る道などもありまs。
商店街の入り口の狭めの階段を上がると、目の前に城壁がそびえたちます。
上がったところが本丸跡になります。かんかん井戸という井戸跡があり、ここから尾長巴紋(別所家家紋)がついた鐙(あぶみ)が出土したそうです。でも、なぜ井戸の中から出てきたのでしょうか。誰かが投げ込んだとしか・・・・。
三木城の概要図です。 前述の通り、三木城は巨大でした。時間をかけて徐々に拡張していきました。今いるのが真ん中上部あたりの三角になっている本丸ですが、周辺の郭だけでなく、南の鷹ノ尾城や八幡神社上の砦なども含めて、全体として防備の構えを備えていたことがわかります。
現地の土地勘のある方は、それがいかに広大な城域だったか、分かるかと思います。
本丸にある天守台です。長治公の辞世の句の碑があります。 ただ、別所長治の時代はこの天守台は無かったと思います。
別所長治公の銅像。個人的には・・・・。
南の鷹ノ尾城。
市役所の駐車場入り口すぐ左側に勤労体育会?へ上る坂道があり、その先に城の入り口があります。
奥に看板があり、そこが入口。結構土塁や郭がわかる形で残っています。実際は市役所の敷地を含めて、その先の文化会館の方まで続いていたとおもいますので、なかなかの規模だったと想像できます。
三木城は、規模が大きいだけにその後の都市化によって、遺構は限られたものしか残っていませんが、国指定史跡となっているのでこれ以上の破壊や放置は無いものと思います。
また、子孫の方々の別所公奉賛会や毎年行われている別所地区のお祭りなどがあり、地域の方々で受け継ぎ、守られていくのだろうと思っています。
三木城といえば、「三木合戦」。いまの明石、加古川、高砂、淡河や丹生山、など周辺各地を舞台とした大合戦です。秀吉が築いた砦郡も国指定史跡になっています。
願わくば、かつての東播磨太守であったように、他の周辺都市と一緒にもっと全国で有名な観光スポットになってほしいと思います。