・別所離反の報を受け、羽柴勢は再度播磨へ侵攻する
・播磨の東側である明石郡の諸将は織田方か別所方(毛利方)かの生死を分ける判断を迫られる
・三木城の支城であった船上城は落城、枝吉城・明石氏は織田方につき、福中城・間嶋氏は兄弟分かれて両者につき、端谷城・衣笠氏は淡河氏らと共に別所方についた

三木城の支城であった船上城

船上城は現在の明石市船上にあった。播磨灘を目の前にし、物資の輸送や監視なども行える絶好立地にあった。林ノ城とも言われ、三木合戦当時は三木城主・別所長治の叔父にあたる別所吉親が城主で城代の大屋氏が在城していたという。

秀吉侵攻により城は攻略された。

三木合戦後、秀吉の天下になると摂津茨木より高山右近重友が入り、現在の船上や西の新明町あたりを含む広大な城域をもつ水城として威容を誇った

城主・高山右近がキリシタンのため周辺はすべてキリシタンになるのでは?と危惧した領内の寺社が秀吉に保護を訴えるも、秀吉は「右近次第」と回答したことで寺社が一斉に明石を離れたという話が残っている。その高山右近もバテレン追放令で国外追放となる。

大坂の陣後に明石藩主として信州から小笠原忠政が明石に入り、徳川秀忠の命令で明石城を築城した。その際、船上城の部材は再利用され、明石城の巽櫓が船上城の天守か櫓を移設したと言われています。

古来より続く明石氏の居城、枝吉城

明石氏は一説には古代の明石国造の末裔でこの地を領していた。応仁の乱の頃には有力な一族として知れ渡っていたという。
その明石氏が現在の森友交差点を西に向かう台地になっている地に枝吉城を築城した。現在の神本神社の上が本丸とされ、以前は西側の住宅地も城域で東西250m、南北110mの広さがあったという。(西側は切り取られて断崖絶壁になっている)

この城のやや北側の下津橋(現在の宗賢神社付近)に屋敷があったとされ、周辺の他の城と合わせて支城としても機能していたという。

三木合戦時、秀吉が侵攻してくると明石氏は当初別所方であったが、当時の当主・明石則実は織田方に付くことに決断する。
その後は羽柴勢として野口城攻めや三木城包囲戦などに従軍した

明石則実はその後秀吉に取り立てられ、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州征伐、四国征伐、九州平定、小田原征伐、文禄の役と歴戦の武将として活躍し大名とり、関白豊臣秀次の家臣となるも秀次事件に連座し、改易、切腹となった。

赤松の流れをくむ間嶋氏

明石から175号線を北に少し進むと平野という地域がある。そこの宝珠寺様があるあたりが当時福中城という城があり、赤松家の流れをくむ間嶋氏が居していた。

間嶋氏は羽柴勢が播磨に入ってきた際に、兄は別所方、弟は秀吉方に付き家名を存続させた(加古川城・槽谷家と同じ)。
秀吉方についた間嶋氏は、そのご淡路岩屋城主などを務めたようだが、関ケ原で西軍につき没落したと伝わる。

別所氏と運命を共にした端谷城・衣笠氏

現在の明石城のすぐ北側を流れる端谷川。川沿いを北に登って西神中央の町の南東あたりにあったのが端谷城。

やや小高い山の上に築かれた山城で、現在の満福寺様の裏手の山になる。いまでも土橋や曲輪など当時の縄張りが奇麗に残っている稀有な山城の1つ。

三木合戦時は、侵攻してきた羽柴勢に対し、すぐ北方の三木城主別所氏に味方し、三木城での籠城戦に参加した。

三木城落城時に戦死したのか、逃れた帰農したのかなどは不明。

御城印・武将印

販売・取扱い場所はこちら。

関連スポット

史跡名場所概要
船上城明石市林ノ城とも。三木城の支城として別所吉親が築城。のちに、秀吉家臣・高山右近が水城としてキリシタンの町を造る。
枝吉城明石市明石氏の居城。三木合戦の折りに織田方につき、豊臣政権で活躍。
下津橋構明石市枝吉城の北にある、明石氏の居館跡と伝わる。
浄蓮寺明石市 林ノ城主であった別所吉親が崇拝していた仏像が保存されている。
端谷城神戸市西区明石北方を流れる端谷川流域にあった山城。赤松家の庶流・衣笠氏の居城。いまでも優良な遺構が残る。
福中城神戸市西区175号線沿いの宝珠寺様一帯にあった城。赤松庶流の間嶋氏が居した城で、当時は広い城域があったというが、いまでは市街化されて跡形もない。

コメントを残す