石田治部少輔三成

石田三成は近江の国出身の武将。羽柴秀吉が信長の家臣として活躍を始めたばかりの頃、近江にある寺で休息をし、そこで茶を求めたところ、幼い三成が温度の違う茶を3度出したことで「才あり」となり、家臣となったことは有名なお話。

その後、官吏として事務方の才を遺憾なく発揮し、前田玄以、増田長盛、長束正家、浅野長政と五奉行に名を連ね、重臣の地位を得る。近江の国、佐和山に城を築き19万石の大名となった。
しかし、生真面目な性格が災いしたか、福島正則、加藤清正、黒田長政、加藤嘉明らの武断派の行為を逐一秀吉に報告したことから恨みを買い、豊臣家を分断するきっかけとなる。

結果、秀吉亡き後、天下を狙う徳川家康に付け込まれ、関ケ原の戦いを誘発する。結果はご存知の通り石田方の大敗となり、三成に同心した大谷刑部吉継は討死、島津義弘や宇喜多直家は敗走(のちに八丈島に配流)、三成や安国寺恵瓊、小西行長らと共に斬首された。

石田三成の甲冑

石田三成の甲冑としては、乱髪の大天衝脇立ての兜、黒絲威しのものが大河ドラマなどで良く出てくるので有名です。他にも金の日輪前立ての筋兜のものもあり、実際はそちらの方が実践向きのようです。(そちらも脇立ての角元がついており、それなりに目立つ兜であったと予想されます)


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