この記事のポイント!

・織田家家臣羽柴秀吉の侵攻により、播磨の各地勢力は大半が織田家に服従する
・秀吉は福原城、上月城など但馬方面の毛利方の城を落とす
・毛利方への本格的な出陣に際し、加古川で軍議が開かれ、波乱が始まる

天下人 織田信長の播磨侵攻

戦国時代の播磨周辺の状況は、まさに群雄割拠。
東からは実質的に天下人になりつつある織田信長が明智光秀に丹波攻め、羽柴秀吉に播磨攻めを命じる。西にはその織田家と拮抗する毛利家が播磨に侵攻する。

この板挟みの状態にある播磨の諸勢力は一族の存亡をかけてどちらにつくのか!?決断を迫られる。

小寺家家老・黒田孝高の暗躍

この状況下で暗躍したのが、小寺家の家老であった黒田家の黒田孝高(官兵衛)。
大河ドラマ「官兵衛」で描かれていた通りかどうかはさておき、播磨内で織田方勢力の旗振り役となり、その結果、一時的に播磨は大方織田家に見方する形になり、羽柴秀吉の播磨制圧が成ったかのように見えた。

毛利家への戦略会議:加古川評定

播磨をほぼ手中に収めた羽柴秀吉は、その先にいる大勢力・毛利家への侵攻を開始する。
そのための戦略会議が、加古川城で播磨の諸侯を集めて行われた。(加古川評定)
播磨の主だった勢力が集まる中、一番の代表格である別所家の当主・別所長治は出席しなかった。代役として長治の叔父・別所吉親と家老の三宅治忠が出席した。

諸説あるが、この時に吉親もしくは治忠が戦の方針について大所高所からとうとうと長口上を述べて秀吉の不興を買ったとか、もともと逆心のつもりで当主が参加しなかったなど、いずれにしてもこの会議をきっかけに、東播磨の太守別所家が離反し、その配下にあった諸侯たちも同調することで、「三木合戦」という戦国史の中でも一目をおかれる大合戦が始まることになります。
*写真は 現在の加古川城(称名寺)

御城印・武将印

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史跡名場所概要
加古川城兵庫県加古川市鎌倉時代より糟谷家(加須屋・粕屋とも)が加古郡加古川の地を治めた拠点

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