この記事のポイント!
・加古川評定で織田家と袂を別った三木城主別所家は戦の準備にとりかかる
・播磨周辺の諸勢力および東播配下の各武家と連携ネットワークを構築し、織田勢力の排除を試みる
播磨周辺の勢力図
この当時の播磨周辺にどのような勢力がいたのでしょうか。
播磨国内では東播磨全体を支配していた別所家が第1の勢力であり、あとは小寺氏、赤松氏、宇野氏などが割拠している。
そして一時は播磨を抑えた織田軍の羽柴秀吉勢が姫路や書写山を拠点にしていた。
播磨の周辺では、別所家の親戚筋である丹波多紀郡の波多野氏や赤井氏が織田家・明智光秀と対峙。大坂の石山本願寺はいまだ織田家と対立中。西からは毛利氏、宇喜多氏や浦上氏も虎視眈々と勢力拡大を狙っている。
別所家の決断
この状況下で、別所家はいかにして織田家との対立を決断したのか。
織田信長は畿内は丹波勢力(波多野氏・赤井氏)、大坂の石山本願寺および 紀州の鉄砲集団「雑賀衆」との10年近い対立 、 西からは毛利氏、宇喜多氏など、東には武田家・上杉家と四方を敵に囲まれている状況で播磨に出せる兵は限られてくる。
なにより、毛利氏には備後鞆の浦に最後の足利将軍・足利義昭が反織田の勢力を後押ししている。
そしてさらに、織田家で摂津を任せれていた荒木村重が謀反することを事前に知っていたら・・・・。
これだけの条件・状況が揃ったとき、もし自分が別所長治なら織田家に対抗しうると考えても不思議ではないかもしれない。こうして、別所家は反織田の決断をし、いくさ準備を進めます。
支城ネットワークの構築
別所家は東播磨八郡の各武家と支城ネットワークを構築し、防衛線を敷いた。 これにより、織田軍が攻めてきても東西南北から挟撃することができ、容易には入り込めないようにした。
主な武家は次の通り:
淡河城(淡河定範)
端谷城(衣笠範景)
枝吉城(明石則実)
福中城(間嶋氏勝)
魚住城(魚住頼治)
加古川城(槽谷朝正)
野口城(長井政重)
神吉城(神吉頼定)
志方城(櫛橋政伊)
高砂城(梶原景秀)
*城主名は別表記もあり
初戦、名家冷泉家の命運
ほとんどの播磨国衆が別所方となる中、織田方についたのが三木・細川庄に居館「細川城」を構えていた冷泉家。城主は細川の地名をとり細川為純と名乗っていた。この細川冷泉家は歌人・藤原定家を祖とする名家であった。
細川庄周辺には別所家家臣の所領も多くあるが、三木城からはやや遠いことから危険を感じた別所家はいち早く離反した細川家を攻撃した。衆寡敵せず、細川城は落城、為純も討ち死にした。
なお、この時に難を逃れ、京都相国寺に入った為純の子が細川惺窩(せいか)であり、江戸時代の有名な儒学者となった。
播磨三城の1つ、三木城
三木城は播磨三城と呼ばれる、街を城内に取り入れた総構えといわれる巨大な城の1つでした。(他は御着小寺氏の御着城、英賀三木氏の英賀城)
当時の三木城は、現在の三木城址のある場所、みき歴史資料館、三木市役所、水道局、雲龍寺、正入寺や周辺緒住宅街など一帯が1つの城でした。釜をひっくり返したような山の形から「釜山城」とも呼ばれています。
御城印・武将印
関連スポット
史跡名 | 場所 | 概要 |
---|---|---|
三木城 | 兵庫県三木市 | 御着城、英賀城と並び、播磨三城と称される巨大な城の1つ。釜山城とも呼ばれる。 別所則治が主家・赤松家再興に尽力し、東播磨八郡を得たことで、この地に城を構えた。 |
雲龍寺(長治公首塚) | 兵庫県三木市 | 当時から城内にあったというお寺。別所長治公とその正室照子姫の首塚がある。 |
正入寺 | 兵庫県三木市 | 当時は別所一族の館跡だったという。後に姫路城主池田輝政の家老伊木豊後守忠次が三木城主となったときに菩提寺にした。 |
鷹尾山城 | 兵庫県三木市 | 別所長治の弟・友之が守備した砦。 現在も三木合戦当時の遺構が残っている唯一の場所と言われる。 |
宮ノ上要害 | 兵庫県三木市 | 大宮八幡宮の上に位置し、岡村何某が守備していた砦。 |
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