③赤松家の再興、戦国時代へ


この記事のポイント!

・嘉吉の乱(1441年)で滅亡した赤松家は長禄2年(1458年)に赤松政則により再興する
・応仁の乱の混乱に乗じて、播磨の国を奪還
・一族内紛や在地勢力との争いが始まる、戦国時代へ

きっかけは、「神璽」の奪還!

嘉吉の乱後、播磨をはじめとした赤松家の領国は宿敵の山名家の手に渡りました。山名家は赤松家の逃れた一族や残党を執拗に追い、自害に追い込むなど厳しい討伐をしました。

そんな時、吉野に潜伏する後南朝(南北朝の統一後、南朝の復権を目指す派閥)の一派が御所に乱入し、「三種の神器」の1つである「神璽」を奪うという事件が起きました。(禁闕の変)
赤松家の再興を願う遺臣、上月満吉・石見太郎・丹生屋帯刀らは、南朝に服属するという前提で侵入し、「神璽」を奪還し、御所へ返還した。

この功績を認められ、赤松政則(満祐の弟・義雅の子である時勝の子)が加賀の北半国の守護に任じられることで「御家再興」を果たしました。

「応仁の乱」で旧領・播磨の国を奪還!

御家再興を果たした時は、領国は加賀の北半分、備前・伊勢の一部でした。
実は、このとき赤松政則はまだわずか3歳!
実質的に領国経営などを行っていたのは、以前から赤松氏の重臣であった「浦上家」だと言われています。

その後、応仁の乱が勃発し、赤松家は東軍(細川方)について戦い、その中でとうとう旧領播磨の国を奪還します。この戦いでは、赤松一族の宇野氏が活躍したと伝わります。

御家騒動(内紛)、戦国時代へ

せっかく、御家再興を果たし、旧領播磨を取り戻した赤松家でしたが、政則の跡目争いなど赤松家内部の内紛が勃発します。
重臣の浦上氏、一族の有馬氏・宇野氏・在田氏などが抗争を繰り返し、そこに宿敵山名家が介入してくるなど、赤松家の屋台骨が揺らぎ始め、播磨は小領主が乱立する戦国時代に突入します。

赤松家には多くの分家があります。いろんな括りがあるのですが、例えば「赤松三十六家」。
中でも随一の有力者をこう呼ぶそうです。いまでも、地名として残っていたり、お友達やお知り合いに同じ苗字の方がいるかもしれません。(ご子孫かどうかわかりませんが)

この中に最初に出てくるのが「別所氏」。三木合戦の主役である別所氏は頼清以降に勢力を拡大していきます。

次回予告

ようやく、別所氏までたどり着きました。三木の別所氏、どういうお家柄か分かりましたでしょうか。
この背景を知っておけば、三木合戦も違った理解ができるかもしれません。
次回からは、別所氏を中心に三木合戦へ話を進めます。

関連史跡スポット

多くあるスポットの中で、いくつかピックアップしてご紹介します。

史跡名場所概要

衆長

武楽衆の衆長です。 日本全国を戦国リアルシュミレーションの舞台とする野望を追究します。

コメントを残す