ナナメ読み!
播磨の戦国武将と城

このページは、播磨にまつわる戦国時代の歴史を「播磨初心者」の方に向けてご紹介することが目的です。中でも、「三木合戦」という播磨の戦国時代では最大級の歴史上の出来事にスポットを当てて、まつわる歴史や史跡などをご紹介いたします。

「播磨」という国

「播磨」とは、旧国名でいまの兵庫県南西部一帯です。
播磨の国は、古代から京の都と西国(九州)を結ぶ街道にある要衝の地。律令制(7世紀)の頃から「山陽道」が通り、各所に「駅」が儲けられました。また、海路には播磨灘があり、沿岸にはいくつもの「泊(とまり)=港」が賑わっていました。
それゆえに、いつの時代も様々な勢力が跋扈し、争い、治め、また、街を発展させてきました。

*左写真は「別所氏と三木合戦」(三木市観光協会)より

播磨の戦国時代

「戦国時代」とはいつ?

「戦国時代」というのはいつなのか?という根本的な話があります。戦国時代は室町時代から安土桃山時代を跨ぐ時代で、一般的には、「応仁の乱」から「大坂の陣」までと言われています。しかし、いやいや「明応の政変」が始まりだとか、終わりは「織田信長の義昭を奉じての入京」だとか、諸説あります。

始期・終期は置いておいて、いずれにしても室町幕府(足利将軍家)の権威が失われ、全国の国を治めていた守護やその配下の守護代、さらにその下の地頭などが地域の実行支配を強めて大きな勢力(守護大名など)となった。それらが合い争う時代が戦国時代と考えます。

播磨の戦国時代はどうだったのか?

播磨の国は、鎌倉時代に幕府の実権を牛耳っていた執権北条家を打ち滅ぼした足利家に味方した地域の国士・土豪「赤松氏」が守護大名となっていました。他に、備前国・美作国の守護も務め、大きな勢力となっていました。室町幕府では「四職(赤松、一色、京極、山名)」という幕府の要職を務め、栄華を誇っていました。

その後、室町幕府が弱体化し、応仁の乱など戦乱が続く中で徐々にその力を失い、播磨国内も赤松氏の一族や地域の有力者が各地を独自に治めるようになりました。

他の地域では、大方どこかの勢力が国全体を統一(実効支配)しているケースが多いです。甲斐の武田家、越後の上杉家、尾張の織田家、駿河の今川家、相模の北条家など。守護大名、守護代、商人など出自は様々。

しかし、播磨は名目上は赤松家の領国であっても、国全体を統一した勢力が出てこず、各地を分割統治している状態でした。そんな中、ほぼ天下を手中に収めた織田家に攻められることとなります。

そんな中でも、最大の勢力を誇ったのが三木城を居城とする「別所家」。別所家は、もとは赤松一門の重鎮と伝えられ、三木城のある美嚢郡の他、東播磨の八郡を領した太守でした。

左図は三木合戦当時の勢力図で、別所家の周りには、東には織田家で摂津を治める荒木村重、丹波は親戚筋の波多野秀治、西には赤松の主筋やさらに西の備前には新興勢力であった宇喜多直家も播磨を虎視眈々と狙っている。まさに群雄割拠。*左図は「探訪 三木合戦」(三木観光協会)より

ナナメ読み!「三木合戦」ストーリー

長い播磨の歴史の中で、日本の大合戦の1つに数えられるべき「三木合戦」にフォーカスします。天下統一を着々と進める織田家。中国地方制覇を指示された羽柴秀吉と別所長治との約2年に渡る長期戦。別所家に味方したのは東播磨各地の武将。明石、加古川、高砂、三木、小野など地域の武将の物語と史跡をご紹介していきます。

<播磨・備前・美作の守護、赤松氏の栄枯盛衰>

<戦国の大合戦、三木合戦>

三木合戦にまつわる城や史跡

主な三木合戦に関わる城や砦、史跡や施設などをマッピングしています。